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ダンサー・イン・ザ・ダーク 最後に残された希望の歌

ダンサー・イン・ザ・ダーク』を観ました。素晴らしい映画です。

 

ダンサー・イン・ザ・ダーク(Blu-ray Disc)

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天才映画作家ラース・フォン・トリアー、彼の映画術は人々の記憶に夢見る物語を深く刻みつける。この作品もそのような奇跡的に醜い傑作となっています。それらが指し示すのは、彼が映画の映画たる自由奔放さ、その力を知る映画の申し子であることの証拠です。

この映画では、ミュージカル場面が主人公であるセルマの空想ということになっており、いわばミュージカルというフィクションが「現実の残酷性」にいかに対抗するのかが描かれています。つまり、『物語と現実の戦い』でもあるわけです。

ぼくの心に、人間を細かく切り砕き、それでも壊れない、残されたものの輝きを感じさせてくれました。

だからこれは悲劇じゃない。工場の騒音、裁判所で走る鉛筆の音、列車の走行音、現実に音楽がなくても、自分だけの世界を編み上げることのできる力。それさえあれば僕たちは生きてゆける、力強い希望の物語。

死刑台に立ち、彼女は歌います。最後から二番目の歌を。

もう一度いう。これは悲劇じゃない。この映画を悲劇だと嘆く人は、夢想する力を失い、現実に逃げているだけです。

彼女は歌う、最後から二番目の歌を。僕らは知っている。最後の歌はまだ歌われていないことを。


……とかなんとか言っちゃってるわけですが、これが悲劇としてあまり盛り上がらないのは、セルマの普通の悟性を超えた圧倒的な理性ゆえの、むしろ自己の宿命を甘んじて受け入れて明晰なまま死んでいく、一種の狂気が作用しているからなんですね。理不尽な運命ゆえに半狂乱のうちに火口に身を投げるとか、そういうふうにまったくならないんですよ。

悲劇が弁証法的に展開していき、クライマックスに至る過程を盛り上げていくわけではなく、むしろ、ミュージカルが作用して過程の向こう側へ突き抜けているというか、そういう白々しくあざとい状況で、物語が奇妙な抑揚で語られていて、劇的なものの中断にミュージカルが使われているという節もあります。

ふっと姿を消すというか、爆発ではなく蒸発といった感じです。自身に対する醒めきった強烈な理性=狂気による自死。これじゃ不完全燃焼の尻切れトンボってもんで最後の舞台は盛り上がらねぇわなぁ!

なんだかすごい色々台無しにした気分です。この映画をみて、非常に消耗しますた……ビョークもものすごく消耗したらしいよ。

 

 

ダンサー・イン・ザ・ダーク [DVD]

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セルマソングス?ミュージック・フロム・ダンサー・イン・ザ・ダーク

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