青豆ほーむ

チラシの裏

翻訳が信用でけへんのや。

こんにちは、断片ばかりでまともな更新ができない青豆です。やっぱり楽しちゃダメだよな。だって忙しいから(言い訳)、忙しいといって何の対策もせずに逃げてるわけですが、いやだって対策といっても睡眠削るしか……

と、まぁそれは置いておく。つらつらと脊髄反射で文章を打つことしか能のないぼくですから、適当に思ったことを書いていきます。

 

最近、といっても去年あたりから、それ以前はまったく興味がなかった映画を見始めるようになりまして、今日もそれについての断片というか感想です。

今回は翻訳のこと。

 

洋画を観るにあたって、英語が聴き取れないというのはかなり不自由で、それが洋画に没頭できない理由のひとつになるわけです。ぼくは脚本至上主義者(キャラクター・物語至上主義)ではないので、それはそれで構わないといえば構わないのだけれど、何か引っかかってる今日この頃です。

その引っかかってる何かだが、多分それは「翻訳が信用できない」ことに由来するのではないかと。訳者の文脈や行間を読む力(映像の、です)によって左右されやすい翻訳は、つまるところ翻訳者の知性や感性というフィルタによっていくらでも歪ませることができのです。だから、翻訳文なんかをみていると「ん?」と疑問を抱かずにはいられない場面が出てきたりして、その齟齬が映画に没頭できない致命的なものとなっていくのがたまらなく嫌ですね。『サブウェイ123 激突』とか、ジャックした犯人とのやりとりに意味不明な箇所が多くて、映像の楽しさを損ねている感があって、それがストレスで……そういやトニー・スコットの物語って「交換」が主軸に置かれてある気がするのは気のせいかしら。

解決策としては「信用できないなら、自分で訳せよ!」というのが最有力候補なのですが、いかんせん時間が足りなくて(言い訳)、というストレスと自己エクスキューズのループに陥る毎日です。答えがわかっているのに「でも」付きで言い訳するからいつまでたっても解決できずにずるずる引きずってしまい時間を浪費していくだけなので、そろそろ☚

 

終盤だいぶグダグダになりましたが、それでは。