青豆ほーむ

チラシの裏

風邪をひいた時に考えるぼくの死生観

数年に一回あるかないかぐらいの珍事だ。風邪をひいてしまった。病弱には病弱の苦悩があるのかもしれないが、健康な体をもつと、不意の体調不良に対する耐性がまったくできていないので、辛い。人間体調が悪くなると、凶暴になるか卑屈になるか、あるいはそのどちらかでもない曖昧な心境になる。

ぼくは卑屈になる方だ。考えたくもないネガティブな想像・空想しかできなくなる。

そんなとき映画を観ているとある程度気分が楽になる。それはいいことなのだけれど、結局、それは自分の脳内にしか影響及ぼさない。擬似体験や知識を増やすことに意味はないのだ。自分の脳内(フィクション)を拡大させたところで、自己充足には程遠い。現実と願望の摩擦に苦しむだけだ。

そして、いつか死ぬ。それが僕らの限界で、それを越えることはない。ミームは残ってゆくけれど、気休めにしかならない。体調が悪くなるとすぐ死について考えたりしてしまうのも悪癖だ。

とにかく、人間いつか死ぬ。僕を驚かせることは、結局、『人生は一度きりで僕は僕にしかなれない』ということに尽きるのではないか。あと精々60年は生きれると仮定して、僕に何ができるのというのだろう。一週間に一冊本を読んだとして、年間約52冊、つまりそのペースを保っていけば、生涯で3000冊で打ち止め。恐らくこれがぼくの限界で、これは人間の持つ寿命、持てる情報などたかが知れているということを示している。なんとも虚しいものだ。本を読むたびに命が削られていく感覚がぼくの心を苛む。

 

どうせその程度が限界なら、思いきり楽しんだ方がいいじゃないか。モラトリアムを状況としてではなく、倫理として全うし、生きる。全力で後退する。それでいいじゃないか。ぼくら「遅れてきた世代」は生まれながらにして死んでいる。そういうのもいいじゃないか。

 

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経験とはつまり人生そのもので、プライオリティをどこに置くかで『自分』というものが形成されてゆく。

いや、それだけではない。

更に驚かされるのは、人生や自分や生や死、そういったことを考えている時、僕の体の中にある膨大な数の細胞が、僕の意思に関係なく、僕を生かそうとしていることだ。