『さんかれあ』~ゾンビ彼女願望と浅薄なセンチメンタリズム~
『さんかれあ』、鑑賞中です。
PLOT
現実の女の子に興味が持てず、夢は「かわいそうな(かわいい)ゾンビっ娘と恋愛すること」と掲げ、ゾンビを敬愛する高校生・降谷千紘(由来:ルチオ・フルチ)は、溺愛していた飼い猫・ばーぶの突然の死に向き合えず、実家で発見した《蘇世丸》なる薬品の調合法が記された古文書を手に、夜な夜な隠れ家である廃墟でばーぶの蘇生を試みていた。
そんな五月のある夜、いつもどおり蘇生薬の調合してい千紘は、川向こうの、決して交流することのないお嬢様学校に通う美少女・散華礼弥(元ネタ:『サンゲリア』)が自分を縛り付ける父に対する不満を古井戸に向かって発散するところを目撃してしまう。
《望むことすら許されない願望》という秘密を共有した二人は、禁断の実験を二人だけで行うことを誓うのだが……
Review
ゾンビっ娘萌え。萌えという言葉はもはや死語といっても過言じゃないのではなかろうか。きっとキャラ萌えっつうのは既存・既視の記号が自身の枠内に収まっていることを再確認するための感情でしかないということは多方面で語られていることでしょう。もはやキャラ萌えは本質的な「知的怠惰」であり「感性磨滅」である……自身の精神をエクスパンドせず、既存のものを永遠に確認し続ける気の狂いそうな無限の反復作業なんておっさん風情に任せておき、我々はそんな唾棄すべきものを捨て、自分自身でことばを開発する必要があるのです。いきなり脱線した。ゾンビの話だ。
「誰からも忌避され再度殺害されるだけのかわいそうな少女ゾンビとチュッチュしたい!!」という願望は恐らくゾンビ映画を消費してきた人たちにとって通るべき道なのでしょう。『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』、『ドーン・オブ・ザ・デッド』etc...etc...に出てくるゾンビ少女ーーもちろん彼女らと言語でコミュニケートすることは不可能であり、もはや獲物をみるや噛み付き咀嚼し嚥下する獰猛な獣として生まれ変わった存在と仲良くすることなどもってのほかで、何より「腐敗していく」という臭い・外見という肉体性を伴う生理的嫌悪感というのは、なかなか回避できるものではありません。
しかし、アニメや漫画ならどうでしょうか。「描けばなんでも存在してしまう」という性質から、異世界や願望を表現するにはまさにうってつけの表現方法と言えるアニメーションという媒体なら、ゾンビっ娘とチュッチュできちゃうんですね!!
それに気づいたはっとりみつる先生はまさに慧眼といえよう。「ヨッッッご明察でありますッッッ」と我を忘れてチンパンジーのごとく柏手を送りたいところです(やかましい)。
図(a)散華礼弥さん(チュッチュする対象)
図(b)散華礼弥さん(チュッチュする対象その2)
まぁ散華礼弥というヒロインは結構どうでもよくて、いちばん可愛いのは主人公である降谷千紘たんなんですけどね。
感想なんですが、あんまり面白くはないです。OPとEDのエモさに反して、あまり抑揚の感じられない構成ではあるし、「悲劇のその先へ」という核となる部分も、上手いこと繊細なカットによって、鑑賞者の重荷にならないように配慮されていて、あまり誠実とは言えない。無茶苦茶ファジィなアニメなんですよ。「うーん、ぼくは好きだな、うまく言えないけど」みたいな。特別なスタイルを取らず堅実、悪く言えばチキン的で、フツーでストイック、そんなアニメですよね。少女アニメ(最近で言うと『となりの怪物くん』とか『アオハライド』とか変化球として『俺ガイル』とかですかね)的と換言してもいい。
あんまり褒めてないですけど好きなんですよね。地味だし、人に薦められるかといえばNOです。いつの日かふと思い出して「『さんかれあ』か……えーと……悪くはなかったよね……俺は好きだな……結構」なんて内省的な反芻を、意味もなく口のなかでループさせるような、そんな作品。
でもまぁ、散華礼弥の転落シーンだとか、父親の徐々に水深へと引きずり込んでいくような、ねっとりとした愛情とか、あざとい演出が多いんですけど、何故かウルっと涙腺を刺激されるんですよ。終始明るい調子で、感慨なんて忌避してきたような乾いたこのアニメが、唯一許したセンチメンタリズム、そしてその先の更なる物語。浅薄ですね、ベタベタですね。でもどうしてか、喉が腫れるように痛んだし、胸が詰まったんですよ。それは許されない現象であるはずなのに、何故かぼくはそれを許してしまった。
ぼくは『さんかれあ』が好きだ。たぶん、いつしか忘却の彼方へ押しやれられる日もくるだろう。それでも、ぼくは好きだ。このアニメが好きだと言える人もきっと好きになれるはずだ。
そういう地味なアニメを、地味に楽しむ。
そういう消費の仕方を、ぼくはいつだって望んでいたんだ。